ちょっと記事を読んだら、あまりにも衝撃的な証言で溢れていたので、まとめてみることにする。
では、「周りから面倒を見られまくる男」2022・2023年ツール・ド・フランスチャンピオン、ヨナス・ヴィンゲゴー・ハンセンについてみていこう。
【幼少期】
【青少年期】
【コロクイック加入】
【ユンボ・ヴィスマ加入】
【2021年ツール・ド・フランス】
【2022年ツール・ド・フランス】
【2023年ツール・ド・フランス】
【幼少期】
1996年12月10日、デンマーク、ユトランド半島にある人口約370人の小さな町Hillerslevに、ヨナス・ヴィンゲゴー・ラスムッセンが生まれる。父クラウス、母カリーナ、姉に約4歳年上のミシェルがいる。ちなみに父親似である。
ツール・ド・フランス優勝後、幼稚園の先生までかりだされて、インタビューされているが、ここで小中学校の同級生、ビスゴーさんの証言をみてみよう。
「小さくて虚弱だった」
「内気で控えめで、クラスの前で発表することに全く興味がなかった」
「でも、いたずら好き」
「『大きくなったら、ツール・ド・フランスに出る』と言っていた」
「嬉しい時も、悲しい時も、涙を流す傾向にあった。テレビを見ていると今も変わらない」
三つ子の魂百まで。
たぶんすくすくと育ったヴィンゲゴーは、サッカークラブに入る。しかし、小さいために年上の子供達からきつく当たられ、行くのをしぶりだす。そこで父クラウスは、2007年8月ツアー・オブ・デンマークが家の近くで開催された時に、10歳の息子を観戦に連れて行く。
その後、地元のサイクリングクラブで試乗してみたところ、褒められたので(本人曰く「会員を増やしたかったから、誰にでもそう言ったんだろうけど」)加入する。
父によると、子供達のレースで2位になり、メダルか何かをもらったヴィンゲゴーは「車で家に帰る時、ずっとメダルから目を離しませんでした」。
子供をメダルで釣ることの重要性がよく分かる。
「ヨナスについて最初に覚えているのは、10歳の時、クラブの練習に来て、2、3キロ走ったところで、ロータリーを回っている時に転倒したことです」ツール・ド・フランスで優勝すると、知り合いにロクでもないことを暴露される。「大声で叫んだので、みんなどこか骨折したのかと思いました。彼は父親と一緒に自転車で車に戻りました」
一方、両親が可愛い息子について覚えているのは以下。
父「雪がたくさん降った年のことです。通りは真っ白か氷で覆われていましたが、少し進むと、まだ黒い道が一部見える大通りがありました。ヨナスはその通りまで車で行き、自転車でその部分を往復して1時間半練習しました」
母「町の人々は自転車に乗っている小さな男の子を見て、気が狂ったのか、どうしてこんな天気の中、練習しているのか、と言いました」
父「息子がどれだけ自転車が好きだったか分かるでしょう」
「地元のクラブの会員は、15人か20人くらいしかいなかった。とても小さなクラブだけど、楽しかったし、よく面倒を見てくれた」ヴィンゲゴーは15歳まで在籍したThy Cykle Ringについてこう語る。
母カリーナ「ヨナスはグループで練習するのが大好きでした。当時の彼はかなり年下で、他のライダー達は彼を保護してくれました」
当時の保護者の皆さん:カーステン・ミケルセン(20歳年長)、イェスパー・オドゴー(12歳年長)、ミカエル・ヴァルグレン(4歳年長、現EFエデュケーション・イージーポスト所属)。
「サイクリングはただの娯楽」だったヴィンゲゴーは、練習には消極的だった。ミカエル・ヴァルグレンの証言。「よく彼の家に行って、ドアをノックして『ヨナス!今から行くよ』って言っていた」「昔のクラブのみんながいなかったら、彼がプロになれたかどうか分からない」
グループライドに連れ出されていたヴィンゲゴーは、引き続き小さかった。「ヨナスが選手になるのは難しいのではないかと思っている人もいました。とても小柄で、他のライダーほどパンチがなく、苦労していました」最高標高海抜173mの平坦な国デンマークでは、山ではなく、風と戦うことになるため、身長が低く、小柄なライダーは不利だった。
レースで勝てないだけでなく、「ヨナスは16歳になるまで不安をコントロールするのに問題がありました」と母カリーナは語る。ストレスに耐えられず、レース前はよく嘔吐していた。本当に続けたいのかと尋ねる両親に、息子はレースが大好きだと答えていた。
一方で、父クラウスは息子の能力に早くから気づいていた。「12歳の夏、クロアチアで休暇を過ごしていた時に彼の登山能力に気づきました」
ヴィンゲゴーの最初のヒーローは、リカルド・リッコだった。しかし、彼が11歳の時、リッコはツール・ド・フランス中にドーピングが発覚し、チームを解雇された。
「2010年にスイスに行きましたが、ヨナスは一日中ツール・ド・フランスを見ていて、アルベルト・コンタドールと同じ山に登ってみたいと言いました」そこで両親は、息子が自転車で伝説の峠を登れるよう、翌年から毎年7月になるとアルプ・デュエズの麓にあるル・ブール=ドアザンのキャンプ場を訪れた。
最初はヨナスが14歳のとき、その後数年は彼の友人も連れて、みんなで自転車に乗った。父クラウスが頂上に到着するまでに、ヨナスは5、6回、行ったり来たりを繰り返していた。
「優秀な遺伝子の大部分は、私が由来だと思います」2023年に父クラウスは語っている。「トレーニングをしていなくても、何時間でも走り続けることができます」
実は父最強説。
【青少年期】
2012年、15歳のヴィンゲゴーはイカストのスポーツ中等学校に入学し、10年生を過ごす。「入学前、ヨナスはもう自転車に乗りたくない、と言っていました」と母カリーナは明かす。「しかし、カリーナと私は、彼の成長が続くのは良いことだという点で同意したのです」スポーツ中等学校の元自転車コーチ、クヌッセンは言った。
同じくスポーツ中等学校のコーチ、ラーセン「ヨナスは身長が低く、比較的虚弱だったため、大変な思いをしていました。学校に通い始めてからの半年間は、モチベーションにかなり苦労していました」
入学後、徐々にやる気を取り戻したヴィンゲゴーは、ナショナルチーム入りし、調子を上げていった。母カリーナは言う。「彼が 『もうやりたくない 』と言ったのを聞いたのはこの時だけです」
一方、ヴィンゲゴーの学校生活は特に問題がなかったと、イカストのスポーツ中等学校のコーチ、ラーセンは語る。「物静かで穏やかだった」「彼は気安い性格で、誰とでも仲良くなれ、すぐに友達と打ち解けた」
同級生だったサッカー選手ミッケル・ドゥールン(現NECナイメヘン所属)の証言。
「ヨナスはいつも物静かで落ち着いていました」
「めちゃくちゃ優しくて、ヨナスの自転車に乗ってもいいかと尋ねると、許可してくれました」
「私は教師達が会議をしていた教室に乱入しました。そしてヨナスの自転車は1週間没収されました」
「でもヨナスは、あるよね、そういうこと(大意)と言ってくれました」
ないだろ。
2013年、16歳のヨナスはAalborg Cykle Ringに移籍し、高校に入学した。高校の同級生クリステンセンによると、ハンドボールとサッカーをやり、運動能力はとても高かったという。
この時のヴィンゲゴーは父クラウスによると「すでにアルプデュエズを42〜43分で登っていました」
しかし、母カリーナは、息子が17歳になるまで一度もレースで勝ったことがなく(父曰く"Absolutely nothing")、クラブのコーチ達が息子の体重について冗談を言っていたことを覚えている。「風が強いと、飛んでいってしまうのではないかと心配だ」
17歳の時、ヴィンゲゴーはアマチュアチームのOdder Cykelklubに移籍する。ジュニア最後の年だった。同じクラブには、未来のツール・ド・フランドル優勝者、1歳年上のカスパー・アスグリーンもいた。
「ヨナスはあまり練習しませんでした。本当のプロフェッショナルの行動はしていませんでした」Odder Cykelklubの元監督、クリスチャン・モバーグは語る。「彼は年間10レース勝つような選手ではありませんでした」当初の彼はシニアカテゴリーへの移行に苦戦し、レースでは期待外れだった。
母は、自転車を楽しむために競技をする必要はない、と息子に忠告していた。しかし、10代のヴィンゲゴーと練習していた人によると、彼について一番覚えていることは、殺人本能だったという。
この頃、突然ヨナスに何かが起こった。イェスパー・オドゴーは言う。「彼は上り坂を走るのが得意でした。でも今や、平坦な道も走れるようになりました。強い西風が吹く海岸沿いの道路に彼を連れ出した時、私達はもはや彼を減速させることができませんでした。私達全員を押しのけるようになったのです」
2015年、18歳のヨナスは、ツール・ド・フランスのアルプス通過後に、地元の人々が開催するアルプ・デュエズでのヒルクライムタイムトライアルに参加した。タイムは40分52秒、アマチュア史上8位の成績だった。
「私達は彼が何か特別なものを持っていることに気づきました。しかし、何よりも、登山を終えて家に帰ってきた時、息子は幸せでした」と両親は語る。
Odder Cykelklubに所属していた時、ヴィンゲゴーはVo2MAXの測定を受けた。
「チーム全員が測定を受けました」父クラウスは言う。「10人くらいいたと思います。7人測定して、何も問題はなかったのですが、ヨナスが受けると『これはおかしい。機械が壊れたようだ』と言われました。でも、その後3人の選手を測定すると、正常でした」
「つまり、機械のせいではなく、そんな値は今まで出たことがなかったのです」
父によると、この時のヨナスのVo2MAXは97位だった(世界最高値レベル)。
Vo2MAXは遺伝的要因が強いと言われている。身長も遺伝的要因が大きく関係するが、父クラウスは母カリーナより背が低く、160cmそこそこ。母もそれほど高くはないので、175cmのヴィンゲゴーは伸びた方かもしれない。平均身長172cmの日本では低いとは言えないが、デンマークの同世代男子平均身長は182cmだ。
2016年の初め、Odder CykelklubがU23チームを設立すると、ヴィンゲゴーの成績は上がりはじめた。
4月にオールボーで開催されたレースで、ラスムス・ガルドハマーとイェスパー・オドゴーに次いで3位となり、初めて表彰台に登った。
5月には、地元の有名な丘Pot Molleを何度も上るハンメルのレースで初めて優勝した。
以前からヴィンゲゴーの存在を知っていたデンマークのコンチネンタルチーム、コロクイック・カルトの監督、クリスチャン・アンデルセン(現ウノXモビリティ監督)は「ハンメルでの勝利を見て、すぐに移籍した方がいいと考えました」。この時、ヴィンゲゴーはデンマークのコンチネンタルチームのライダーを何人も破っており、アンデルセンはヤコブ・フルサンと同じくらいの才能と可能性を彼に感じたと語る。
レースの9日後、19歳のヴィンゲゴーはコロクイック・カルトに加入し、以後クリスチャン・アンデルセンに面倒をみられることになる。
【コロクイック加入】
2016年のコロクイック加入時の記事に載ったヴィンゲゴーの写真が、2023年に話題になった。学生の頃、ギターのレッスンをかなり長い間受けていた、というのも納得の、お気楽そうな長髪の少年がそこには写っていた。
移籍したヴィンゲゴーは、9月のツアー・オブ・チャイナTで総合2位を獲得。将来ツール・ド・フランスを制することになるエガン・ベルナルが所属するイタリアのプロコンチネンタルチーム、アンドローニ・ジョカットーリ・シデルメクが、すぐに彼に興味を示した。
しかし「ヨナスのメンタリティはイタリア人の仕事のやり方とは合わない」「イタリア語かスペイン語ができないといけない」と考えたアンデルセンは、彼に断ることを勧めた。
アンデルセンは言う。「私がコロクイックで彼と一緒だった間、サイクリングの資質を向上させることはあまり目的ではありませんでした。ヨナスはすでにほとんどのことを知っていたので、人間として成長することの方が重要でした」
2016年に学校を卒業したヴィンゲゴーは、2017年からとあることをはじめる。
そう、ヴィンゲゴーといえば魚工場、fishermanという二つ名の由来となった「プロ契約の半年前までやっていたアレ」である。
しかし、巷で考えられているような「水産工場で生計を立てつつ、アマチュアとしてトレーニングに勤しみ、ついにプロ契約をゲット」的な物語とは全く無縁である。彼は生活費を稼ぐために働いていたのではなく、チームの監督に水産工場に働きに出されていたのだ。当時実家暮らしで、何なら機材代も親が出していた説のあるヴィンゲゴーは、働く必要はなかった。
コロクイックの監督、アンデルセンはこう語る。
「他に何もすることがなかったら、トレーニングに出るのが12時か13時になる可能性も十分にあります」
「毎日の生活にリズムを与え、時間管理を学ぶために、ヨナスは何か他のことをするべきだと私達は考えました」
「彼には明確に定義された毎日のスケジュールが必要だと思いました」
「それはヨナスの人としての成熟に重要でした。自分の人生に構造と規律をもたらして欲しかったのです」
「仕事をすることで、彼は時間の使い方と一定の生活リズムを身につけることができました」
生活リズムを整えるため、という身も蓋もない理由で働きに出されたヴィンゲゴーは、ハンストルムにある水産工場で、午前6時から12時まで働いた。カーステン・ミケルセン、ミカエル・ヴァルグレンも同じ工場で働いていた。
「ヨナスはいつもとても早く来て、すぐに始めました」とミケルセンは語る。
父クラウスは言う。「普通の仕事も必要だということを彼は学ぶ必要がありました。自転車競技のキャリアがどうなるかは誰にも分からないからです」
水産工場での仕事内容は、魚の梱包、競り、事務など諸説あるが、魚の皮を剥いていたことは確かだ。
本人曰く「尻尾を持って皮を剥く機械に入れる」(その後は、女性達が手作業で切り身にする)
「朝は5時起きでしたが、水産工場で働くのは好きでした」
「何も考えなくてすむのは、本当に楽でした」
…どうなんだ、その感想は。
2017年、20歳のヴィンゲゴーは、4月に行われたワンデーレース、GPヴィボーで、カスパー・アスグリーンに次ぐ2位に入り、好スタートを切る。
しかし、5月に出場したノルウェーのレース、ツール・デ・フィヨルドで大腿骨を骨折し、しばらくベッド上で過ごすことになる。本格的に自転車に戻れたのは、9ヶ月後だった。
そろそろ怪我から復帰しつつあった2018年2月頃、大事件が起きる。ヴィンゲゴーは未来の妻に出会ったのだ。チームコロクイックの行事で出会ったトリーネ・マリー・ハンセンは、チームのスポンサー企業、牛の初乳管理機器システムの会社コロクイックに、マーケティングマネージャーとして勤めていた。
当時32歳のトリーネの、ヴィンゲゴーの第一印象は「16歳かと思いました」
声をかけてきた彼に「私は犯罪者になりたくないと思いました」「幸い21歳でした」
「ヨナスはしばらくの間、私にちょっと夢中になっていました」年齢差もあり、最初は取り合っていなかったトリーネだったが「彼があまりにも主張し過ぎたので、数か月後に折れてしまいました」
「彼のように心優しい人に出会えることは滅多にありません。とても穏やかで、機嫌が悪くなったり、要求したりすることはありませんでした」管理職だったトリーネは、社内恋愛になるため、最初の数カ月は2人の付き合いを秘密にしていた。
「ヨナスはプロになるとは思っていませんでした。銀行員になりたいと言っていましたし、私は銀行員の妻になりたいと思っていました」
一方で、ヴィンゲゴーと付き合いはじめたトリーネは、彼の問題点にも気づいていた。
「初めて出会った時は、ヨナスはとても怠け者でした。プロ選手として、そんなことで意味があるのでしょうか?100パーセントの力を出し切るか、別の職業を選ぶかのどちらかです」
「出会った時は、彼はレースによっては簡単に諦めていました。でも、泣いても何の意味もありません。プロ選手になりたいなら、泣き言を言わずにちゃんとやらないと」
「勝つことが目的ではないのです。ベストを尽くすこと。毎回ベストを尽くせれば、たとえ勝てなくても悲しむことは何もありません。付き合いはじめた頃、よく彼とそのことを話し合いました」
そこから?そこからなの?
たとえ将来を嘱望されていたとしても、この頃のヴィンゲゴーは、古い言葉でいう「三高」の正反対である。しかし、さすがは周りから面倒を見られることに長けている男、トリーネは彼の面倒を見はじめ、なんと根性を叩き直してしまうのである。
トリーネ「過保護に育てられたため、ヨナスは自立できず、自信も自尊心もほとんどありませんでした。私は難しい選択肢を提示し、彼はそこから学びました」
本人「僕は諦める傾向があり、困難な状況からは逃げていました。トリーネは、最初は嫌だった状況に僕を追い込んでくれました」
トリーネ「チームの無理な作戦にキレるのではなく、自分の意見を持つように勧めました」
「彼に自分の意見がなければ、そのうち私が轢き殺してしまうんじゃないかと思いました」
2018年3月3日、スペイン、アリカンテ近郊で行われたコロクイックのトレーニングキャンプで、ヴィンゲゴーはコル・デ・ラテスの最速登坂記録を更新する。それまでティジェイ・ヴァン・ガーデレン(当時BMCレーシングチーム所属)が持っていた記録を12秒上回る、13分2秒のタイムだった。
その時ヴィンゲゴーと走っていたコロクイックのチームメイト、エミル・ヴィニェボはこう語る。
「彼の潜在能力は明らかでしたが、将来チームメイトが世界最大の自転車レースで優勝するとは想像もしていませんでした」
ヴィニェボは「のんびりと、ストレスフリーな」態度を維持できたことが、彼を頂点に導いたと考えている。「ヨナスはユーモアのセンスが抜群です」
本人「精神的にも、肉体的にも強くなったと思いました。ワット数も増えましたが、精神的にも向上しました。物事のために戦うことを学びました」
後にクリスチャン・アンデルセンはこう言っている。「私達と一緒にいた時、ヨナスの進歩は直線的で、前進を止めることはありませんでした」
この頃、デンマークの研究グループがヴィンゲゴーのVo2MAXを測定した。
「私達は、彼がトレーニングの登山で記録を破ったという噂を聞いていました」とスポーツ生理学者ラース・ヨハンセンは語る。「ヨナスのデータは明らかにできませんが、他のアスリートよりも15%高かったです。アスリート間の差異は通常は小さく、2桁になることは非常にまれです。ヨナスの値は、チームデンマークでこれまでに測定された全てのアスリートの中で、トップに位置しています」
「遺伝が関係しているのは間違いありません。私達は多くのエリートアスリートを見てきましたが、ヨナスのようなレベルに到達するには、遺伝的素質と、優れたハードトレーニングを組み合わせる必要があります」
この結果はデンマークのテレビ番組でも特集された。
一方、コロクイックの監督アンデルセンは、オランダのワールドチーム、ユンボ・ヴィスマの監督グリーシャ・ニアマンに、以前からヴィンゲゴーを売り込んでいた。アンデルセンと元々知り合いだったニアマンは、後にチームカー無線の「come on Jonas, come on」で有名となったあのおじさんである。
「2017年から私達は毎週話し合っていましたが、グリーシャはユリウス・ヨハンセン(当時コロクイック所属、2017年世界ジュニアロードチャンピオン)やミッケル・オノレ(現EFエデュケーション・イージーポスト所属)に、より興味を持っていました」とアンデルセンは言う。
「ヴィスマの明確に定義された仕事のやり方が、少々抜けたところのあるヨナスには必要」「オランダ人とデンマーク人のメンタリティはそれほど変わらない」と考えていたアンデルセンは、常々ヴィンゲゴーを推していたが、ニアマンは大きな結果を出していない神経質な選手には特に興味を持っていなかった。
しかし、コル・デ・ラテスの最速登坂記録更新、同じく3月のドイツのアマチュアレース優勝、4月のフランスのレース、ツール・ド・ロワール=エ=シェールの新人賞、という結果を知ったニアマンは「あれが君がずっと言ってた選手か」となる。
グリーシャ・ニアマンの証言。「ツール・ド・ロワール=エ=シェールは、本当に体を鍛えているか、レースができるかが大事になります。なので早く予約しようと思いました。すぐにヨナスにテストを受けてもらいましたが、結果は非常に良好でした。それで、メリイン(・ジーマン)にこう言ったのです『このチャンスを掴み、契約しましょう。彼がツール・ド・ラヴニールで優勝するまで待たないようにしましょう』」
こうして、21歳のヴィンゲゴーはユンボ・ヴィスマに青田買いされることが決まる。
2018年6月、ヴィンゲゴーとアンデルセンは、ベルギーの空港ホテルでユンボ・ヴィスマとの契約に臨んだ。
翌7月、落車で脳震盪を起こしたヴィンゲゴーだったが、デンマークU23代表チームの一員たる彼の次の目標は、9月にインスブルックで開催される、山岳ルートがある世界選手権での上位入賞だった。
コロクイックの監督アンデルセン「山岳インターバルでキロ6.8ワットで走れば、U23レベルでは間違いなくトップです」。世界選手権に向けてヴィンゲゴーの調子は良く、期待されていた。
「レースが始まる前、ヨナスは全身が震えていて、完全に麻痺していました。いつもそうでした。良い結果が得られると分かると、彼は身動きが取れなくなるのです」ヴィンゲゴーは10分以上遅れ、63位でフィニッシュした。ちなみに、デンマークチームの最上位はミッケル・オノレで20位、優勝したのはマルク・ヒルシ(スイス)だった。
アンデルセン「ヨナスはプレッシャーに耐えられませんでした。以前から神経質で、ストレスの多い状況には対処が困難なのです。彼は、自分にはできない、と言い聞かせ始め、緊張して眠れなくなり、食事も取れなくなります」
【ユンボ・ヴィスマ加入】
2019年2月、22歳のヴィンゲゴーはユンボ・ヴィスマに加入した。この時の彼は、控えめで、社交的ではなく、極度に神経質で、「怠け者だと思われており、誰も彼についてよく理解できなかった」。
「ヨナスとは同時にユンボに来て、最初のチームミーティングでホテルの部屋に一緒に泊まったのを覚えています」この時移籍した34歳のトニー・マルティンは、正直なところ彼のポテンシャルを見抜けなかった、という。しかし、マルティンはグリーシャ・ニアマンとの会話を覚えている。「ニアマンは、ヨナスは世界のサイクリング界で次のビッグスターになるだろう、と言っていました」
最初の練習合宿でルームメイトになったマイク・テウニッセン(当時26歳)の証言。
「全く喋らなかった。いつもガールフレンドと電話していて、こっちが何を言っても、聞いてはいるが、返事が返って来ない」
…そんな後輩、嫌やろ。
2019年2月、ヴィンゲゴーは移籍後初のレース、スペインのヴエルタ・ア・アンダルシア・ルタ・サイクリスタ・デル・ソルに出場した。
「ルタ・デル・ソルのレースに臨んだとき、ヨナスは緊張の塊でした。ストレスで朝起きると、熱が出ていました」ユンボ・ヴィズマの監督フランス・マーセンは語る。「レースには医師がいなかったので、スタートできるかどうかを私が判断しなければなりませんでした。ヨナスは恐怖心で力を発揮できず、最下位に終わりました(114人中109位)」「選手の多くが不安を抱えていますが、ヨナスの不安はこれまで見たことがないほどでした」
しかし、その後、非常に難しいステージでトップ10に入ったヴィンゲゴーを見たマーセンは「普通の選手ではないと思いました。できる時はできるので」
2019年8月、ツール・ド・ポローニュに出場したヴィンゲゴーは、第6ステージでパヴェル・シヴァコフとジャイ・ヒンドレーを破り、いきなりステージ初勝利を遂げる。
本人「プロになって1年目に、ワールドツアーのステージで優勝できるなんて、考えたことも願ったこともありませんでした」
このステージ優勝で、総合順位でも1位に躍り出たヴィンゲゴーだったが、また同じことが起きる。
「朝、ヨナスからの着信を見た時、何かが間違っていると分かりました」とクリスチャン・アンデルセンは語る。「彼と話すと、一晩中眠れず、朝食も食べられなかった、と打ち明けられました」
翌日のステージで彼は14分30秒遅れの81位となり、総合26位に沈んだ。
しかし、続いて出場したツアー・オブ・デンマークでは総合2位に輝き、この結果に安心したヴィンゲゴーは、ワールドツアーを続けられるとという期待を感じたという。「いつかグランツールでリーダーになれることを願っています」
クリスチャン・アンデルセン「ヨナスはとても敏感な人間で、安心感を必要としています。彼はプレッシャーに本当に苦労してきました。特に期待のプレッシャーです」「ヨナスは本当に楽しい若者で、一緒にいて楽しいし、パーティーもできます。でも、彼には平和と安全が必要なのです」
チームもこのことはよく分かっており、「成長しやすいように、ヨナスを陰に置いておくようにした」。
Odder Cykelklubの元監督、クリスチャン・モバーグ「ユンボ・ヴィスマはヨナスの面倒を100パーセント見てくれました。彼らはヨナスを自由に行動させ、静かに成長させました」
父クラウス「ユンボ・ヴィスマは、ヨナスを締めるネジがまだたくさんあることを気に入ってくれました」。
チームはもちろん、メンタルコーチングの専門家のもとにヴィンゲゴーを通わせた。しかし、うまくはいっていないようだった。
トリーネは当初、彼氏の精神的問題に介入したくないと考えていた。しかし、ツール・ド・ポローニュの後、 試合前のストレスや緊張について2人は話しはじめた。
「ヨナスは大事な日には夜明けに起きていました。目を覚ますと、レース中に起こりうるあらゆる悪いことを頭の中で考えるのです。そして、自分を精神的に苦しめはじめます」
トリーネは音楽を聞いたり、電話で話をしたり、チームメイトやスタッフと自転車以外の話をして、悪いサイクルを止めることを提案した。「話をすることで頭の重さを軽くするのです」「ヨナスは考え事で圧倒されていました。私は少し厳しく言い過ぎたこともあります。これが世界の終わりではないのよ、と」
クリスチャン・アンデルセン「トリーネはヨナスに穏やかな雰囲気を作り出します。ヨナスが行き着く可能性のあるさまざまな考えに対して、家族はある種の車止めとして機能するのです。最悪のシナリオが実現して、自転車に乗ることができなくなったとしても、愛する家族とともに家にいることはできます。それも悪くはありません。安全、それは彼にとってすべてを意味します」
本人「トリーネは平安を見つけるのをとても助けてくれ、その中でもっと休むことができるようになりました。何も恐れる必要はない、と彼女は言いました。それが大きな自信になりました」
トリーネは他にも彼氏にあることをやらせていた。DIYである。
本人「例えば、先週は家の一部を塗装し、今週はソファを塗りました。義理の両親の助けを借りて、新しいガレージを作っていますし、自分のジムも作っています」
2020年9月、ヴィンゲゴーにとって人生最大の事件が起きる。長女フリーダの誕生だ。娘の誕生は、本当に重要ではないことを相対化させ、ほとんど絶対的な心の平穏をヨナスにもたらしたという。
「フリーダがこの世に誕生したことは、彼にとって啓示でした。子供を持っている人なら、誰もが共感できると思います。子供が生まれたことは、ヨナスの力になりました」とクリスチャン・アンデルセンは言う。
出産のためチームを離れていたヴィンゲゴーは、エースのログリッチが個人TTで57秒差をポガチャルに逆転され、ツール・ド・フランスの優勝を逃したのをテレビで見ることになる。
この頃、デンマークでは、次期グランツール期待選手としてヴィンゲゴーの名前が挙がりはじめた。
デンマーク代表監督アンダース・ルンド「彼はデンマークの自転車界ではまだあまり知られていない存在ですが、ツール・ド・ポローニュで2年連続で上を目指して走れることを証明しています」
2020年10月、ヴィンゲゴーは初のグランツール、ブエルタ・ア・エスパーニャに参加した。3週目の第11ステージ、ファラポナ山頂フィニッシュでは、約20kmに渡って先頭を引き、翌第12ステージ、アングリルでも、無事ログリッチのアシストを務めた。
ブエルタを途中リタイアしたトム・デュムラン「ヨナスはいい奴だよ。彼はとても才能がある」
ヴィンゲゴーは2022年にこう語っている。「プリモシュは、2020年末にチーム内で、僕にツール・ド・フランスで優勝する能力があると言いました。チームは、大きな試合で僕をリーダーにすることを少し躊躇していましたが、プリモシュは常に僕を擁護し、僕を信じていると大声で言いました。それは僕にとって大きな意味がありました」
両親によると、ログリッチは常に兄のように振る舞っていたという。
2021年2月、24歳になったヴィンゲゴーはUAEツアーに参加。第5ステージ、険しいジェベル・ジャイスのフィニッシュで、前年のツール・ド・フランス覇者タデイ・ポガチャルを破り、ステージ優勝を果たした。
デンマーク自転車界のレジェンド、ブライアン・ホルム「ヴィンゲゴーはチャンスを掴みました。誰が2位か、見て下さい」「ヨナスは優しい子で、みんなに好かれています」
クリスチャン・アンデルセンは、転機が訪れたのは3月のセッティマーナ・コッピ・エ・バルタリだと言う。「ヨナスは2ステージで勝ち、総合優勝しました。全員を圧倒しました」
ユンボ・ヴィスマの監督フランス・マーセンによると、ヴィンゲゴーが自信を持ってストレスを忘れ、プレッシャーを取り除くことができるようになったのは、4月のイツリア・バスク・カントリーからだという。
「ヨナスはアキレス腱にちょっと問題を抱えていました。イツリア・バスク・カントリーの前は、ほとんどトレーニングをしていなかったのに6位になり、ツアーで総合優勝するチャンスさえありました」ヴィンゲゴーはポガチャルを抑え、ログリッチに次いで総合2位となった。「その時、プリモシュが『ヨナス、君ならツールに勝てる』と言ったのが印象的でした」
ちなみに、コロクイック時代のチームメイトも「ヨナスは自分達よりもずっと少ないトレーニングで済むし、より早くスピードに乗れる」と語っている。「それから彼は成長しました。結果を出すことで、自分が本当に優れた選手だと分かります。それにデータ見ると、彼の能力は信じられないほどでした。そこから大きな自信が生まれます」
デンマークの元選手クリス・アンカー・セレンセン「イツリア・バスク・カントリーは、最も過酷な1週間のステージレースだと思います。本当に嫌なレースです」「ユンボ・ヴィスマは近いうちに引き継いでくれる若い選手を必要としていますが、現時点ではヴィンゲゴーが最善の候補でしょう。3、4年すれば、あるいは2年以内にはチームは彼に賭けているかもしれません」
「ログリッチとトリーネは、ヨナスの中にツールで優勝を目指して戦える選手を見出しました。これが彼を完全に変えました」フランス・マーセンは、ヴィンゲゴーの成長と成熟の過程において、根本的な役割を果たしたのは妻だと語った。「彼にとっては、妻と娘が最も大切な存在です。もちろん、ツールで優勝するよりもずっと大切な存在です」
【ツール・ド・フランス初出場】
2021年4月、ヴィンゲゴーのツール・ド・フランス出場が決まった。
「ヨナスはツールで重要な役割を果たすと信じています。彼の選出は、好成績に対するご褒美です。理論的には、ヨナス自身もグランツールの候補になれます」と監督グリーシャ・ニアマンは述べた。「ヨナスはタイムトライアルも優秀です。しかし成長には時間が必要です。その点では、ステフェンやプリモシュと一緒にグランツールに参加し、彼らを助け、彼らから学ぶことほど素晴らしいことはありません」
デンマークメディアは盛り上がった。デンマーク自転車界のレジェンド、ブライアン・ホルムは、ヴィンゲゴーを「新しいフルサン」と名付けた。
「もしヴィンゲゴーが、山岳ステージのいくつかで、残り数キロまでエース達と走ることができれば、良い成績を収めたと言えるでしょう」
「毎日彼を見ることを期待すべきではありません。高山では、ヴィンゲゴーとアメリカ人のセップ・クスが、ログリッチの世話役を交互に務めることになるでしょうから」
「今のヨナスは、いつかグランツールで表彰台に上ることができる選手のように見えます。少なくとも彼には可能性がありますし、我々は夢見ることができます」
2021年6月、ヴィンゲゴーはツール・ド・フランスに初出場した。
「チームバスの中では、僕をプリモシュの影と呼んでいます」インタビューでヴィンゲゴーは述べた。「サドルの高さがプリモシュと同じなので、彼の後ろについていなければいけません。そしてプリモシュが問題を抱えた時は、僕の自転車を彼に渡さなければなりません」
6月30日、第5ステージの個人TTで、ヴィンゲゴーはワウト・ファン・アールトやデンマークチャンピオンのカスパー・アスグリーンを抑えて3位に入り、知名度を上げる。「TTの後、スター達がお祝いを言いに来てくれて嬉しかったです。リッチー・ポートが来てくれたし(1位の)ポガチャルもうまくやったと言ってくれました」
ところが、エースのログリッチが、落車と怪我により7月2日には9分遅れとなり、第8ステージを最後にリタイアした。ユンボ・ヴィスマは第7ステージ終了時点で総合11位につけていたヴィンゲゴーに賭けるか、それともステージ優勝に賭けるかの選択を迫られた。
監督フランス・マーセン「ヨナスは学ぶためにここにいますが、学習速度はとても速いです。TTは素晴らしかったし、山岳でも同じ強さを発揮してくれることを願っています」
「僕はログリッチのアシストとして、ツールに参加しました。学ぶために参加したので、アシストとして走りきることを望んでいました。でも、今チャンスが来ました。それを掴むように努めなければなりません」第8ステージ前にヴィンゲゴーは言った。
第9ステージから繰り下げで新人賞ジャージを着用するようになったヴィンゲゴーは、ツール最初の休息日の時点で総合4位に上がっていた。
「僕はプリモシュの陰にいました。常にその方が好きでした。でも、今はそれは不可能です」
「今、自分が受けている注目については、考えないようにしています。同じ理由でニュースも読みません。デンマーク人が大きな期待を寄せていることを知っているからです」
「僕が表彰台に上がれる、あるいは良い結果を出せる、と考えている人がいると知ると、精神に何か影響を与えるかもしれません。僕は自分のレースに集中する方が良いことを学びました。ソーシャルメディアに関することはすべて避けています」
「近づいてきて『よくやった』と言ってくれる人がかなりいます。特にデンマーク人です。みんなが応援してくれている気がして最高です。彼らはあまり期待はしていないようですが、僕が順調なことを喜んでくれます」
記者達は、謙虚で内気という言葉がよく似合うヴィンゲゴーは、質問に丁寧かつ気持ち良く時間をかけて答えてはくれるものの、取材は避けたいと考えており、自分のことを話すのがあまり好きではないようだ、と評した。
「びっくりしました。もちろんツールで良い成績を残したいとは思っていましたが、初の休息日に4位というのはかなりクレイジーだと思います。それは認めざるを得ません」とヴィンゲゴーは述べた。
7月7日、モン・ヴァントゥを2度登るという頭のおかしい第11ステージ。ヴィンゲゴーは、2回目のモン・ヴァントゥの登りでアタックし、マイヨ・ジョーヌのポガチャルを引き離した。下りで集団で追いつかれ、同タイムフィニッシュとなったものの、総合3位に浮上した。
この山岳ステージでは独走したワウト・ファン・アールトが優勝、一方でトニー・マルティンが落車により途中リタイアし、チーム3人目のリタイア者が出るなど、ユンボ・ヴィスマは悲喜こもごもだった。
魔の山モン・ヴァントゥで、登りでポガチャルを上回った初の選手になったことで、ご褒美出場したログリッチの影のデンマーク人アシストは、俄然注目を集めることになる。
アタックは計画していたものではなく、即興だったとヴィンゲゴーは述べた。「世界最高の選手の一人を引き離したことは、確かにある程度の自信を与えてくれます。でも、これは僕にとって、まだ2回目のグランツールに過ぎません。もしかしたら3週目には完全にダウンしてしまうかもしれません」「僕はサイクリストとしての自分のことを、あまり良く分かっていません。うまくいったことに驚いています」
「チームがこのツール・ド・フランス中、ヨナスを隠そうとしていたことは疑いの余地がありません。しかし、もうそれはできません。予想以上に早く、注目を浴びるようになったからです」Odder Cykelklubの元監督、クリスチャン・モバーグは語った。「しかし、ヨナスは非常にうまく管理しています。彼は外の世界を遮断するのがとても上手です。メディアを見ないし、トリーネと話をして、それで終わりです」
「私はユンボ・ヴィスマが彼を信じていると、いつも感じていました。ヨナスが初めからログリッチのバックアップだったことは間違いありません。誰もそれを言わなかっただけです。彼を守るために」
ユンボ・ヴィスマの監督メリイン・ジーマンは、ヴィンゲゴーはポガチャルに挑む希望なのか、という問いにノーと言い、ヨナスがスロベニア人を引き離したのは「とても嬉しいサプライズ」だったと述べた。
後にヴィンゲゴーは「あの瞬間は、僕のキャリアにおける重要なポイントでした。あの時から大きなステージに足を踏み入れたのだと思います」と語っている。
7月11日の第15ステージはセップ・クスが優勝したが、ユンボ・ヴィスマの5人中3人が逃げに乗ったことで「メイン集団にヨナスは取り残された」「オランダ人はデンマーク人を守ることに興味はないのか」とデンマークメディアは噴き上がった。
監督メリイン・ジーマン「私達にとって、ヨナスが最終的にどの位置につくかは重要ではありません。彼はプレッシャーを感じずに走る必要があります。これをしなければいけないとか、何か特別なことを達成しなければならないとは言われません。ヨナスは若い選手です。彼が成長に喜びを感じられるようにしたいと思っています」
「ヨナスと私達は計画を立てており、2、3年以内に彼をチームの最も重要なエースの一人にしたいと考えています。私達は一歩ずつ進めています」とジーマンは述べた。「私達をもう少し認めて、信じて下さい」
ユンボ・ヴィスマも大変である。
Odder Cykelklubの元監督クリスチャン・モバーグと、コロクイックの元監督クリスチャン・アンデルセンも心配していた。
「私はグリーシャ(・ニアマン)に、冷静にこれまでと同じように行動し、ヨナスのために何も変えないようにするべきだと言いました。起こり得る最悪の事態は、周囲で騒音が起こり、彼を緊張させてしまうことでしょう」
「ヨナスは他の多くの選手よりも成長が遅れており、もっと良くできる事がまだたくさんあります。最近では、ツール前のトレーニングキャンプで膝に問題を抱え、少し自信をなくしていました」
7月14日、第17ステージを終えて、ヴィンゲゴーは総合2位に浮上した。ヴィンゲゴーの様子を聞かれたマイク・テウニッセン「すごく静かで、時々ぼーっとしている。誰かのシャツをとったりする」「でも、とても勉強熱心で、とにかくよくやっている」
先輩フォローを怠らない。
もちろんユンボ・ヴィスマはヴィンゲゴーのメンタル面に細心の注意を払っていた。なにせわずか2年前には「これまで見たことがないほどの不安」を示していた選手である。
監督メリイン・ジーマンは、ログリッチがリタイアした後、チームはヴィンゲゴーをエースにすると決めていたが、本人には決して告げず、「ステージ前のチームブリーフィングでは、選手一人一人に目標やアドバイスを与えましたが、ヨナスには何も言いませんでした」と語った。
本人「実際、チームはツール・ド・フランス前に、僕が表彰台に上がれると信じている、と言っていました。でも、僕にプレッシャーをかけることはありませんでした」
7月17日、ヴィンゲゴーは個人TTを3位で終え、無事に表彰台の2位を確保した。
記者会見で彼は、問題は他人が自分に期待していることではなく、自分が期待していることだと述べた。
「チームの反応を恐れていたわけではありません。自分の期待が大きくて、やりたいことができるか不安になりました」
「大きなプレッシャーがかかりましたが、自分に対する期待に対処する方法を学んだように思います」
「ツール・ド・フランスは、最もストレスがかかる場所ですが、そのストレスに対処できることを示すことができて嬉しいです。ここよりもひどいところはありませんから」
「以前は練習でいい走りをしても、すぐに結果が出なかったら失敗だと思っていました。今はこう思います。『分かった、全力を尽くして結果がどうなるか見てみよう』」
この「クレイジーな」1年から何を持ち帰ったかを問われたヴィンゲゴーは「自分を信じること」と答えた。「僕はここ数年で精神的に大きく成長しましたが、まだまだ成長する必要があります。特に、エースになることを考えています」
観戦に来ていたヴィンゲゴーの両親もインタビューを受けている。「私達はヨナスがプロになるのを助けました。そこからトリーネとフリーダが今の彼を作りました」
表彰式を見た母カリーナは、祖母として孫とともに表彰台に上がる息子を見るのは、とても幸せだと述べた。「(フリーダが)表彰式で着る、小さなユンボ・ヴィスマのドレスを縫ったんですよ」
「ヨナスがツール・ド・フランスで2位になったことよりも、トリーネを獲得できたことの方に驚いている」とコロクイックのチームオーナー、ブライアン・ペデルセンは、ヴィンゲゴーの祝賀会で語った。彼はヨナスを「羊の皮をかぶった狼」と評した。
2021年冬、ヴィンゲゴー一家は家を購入した。家について何をどうするかという問いに、いつも通り「何でもいい」と答えたヨナスに腹を立てたトリーネは「自信をつけさせるために」家を改装させることにした。
「最初は、そんなこと無理、と言っていましたが、結局、壁を壊してキッチンを取り付け、床も敷きました。それでヨナスは、自転車以外にもできることがあると自信をつけたのです」
そんな自信のつけさせ方もあるのか。
彼氏に「大人の男になって欲しかった」トリーネは「自転車レース以外の話もできるように、新聞も読むように言いました」。
ツール・ド・フランスの2位はヴィンゲゴーに必要な自信をもたらした。
「彼は以前はライバルに対して、もっと恐怖心を抱いていたと思います。今ヨナスは、自分自身をもっと見つめ、何が得意なのか、勝つために何ができるのかを考えています。自分自身を100パーセント信じています」とトリーネは言った。
「プロとしてキャリアをはじめて数年が経ち、失敗するのが恐くてたまらず、自分にプレッシャーをかけ過ぎて、それに対処するのに苦労しました」
「以前は、人々が僕について書いたり、考えたりすることが、とても衝撃でした。緊張して、さらに自分にプレッシャーをかけてしまいました。だからニュースを読まず、人々が僕が間違ったことをしたと考えていることを知らないようにしています。他の人が何を考えているかを気にしないことを学んだのです」
「僕が応えないといけない相手は、家族とチームだけです。他には何もありません」
ツール・ド・フランス後、ヴィンゲゴーにはさまざまな依頼が殺到した。
「テレビ番組をいくつか断りました。僕のガールフレンドに依頼が来るのですが、彼女はたいてい僕に聞かずに断ります」
トリーネは、ヨナスは他人を喜ばせようとする人間であり、それが時には自身を傷つけることになる、と述べ、すべての人を喜ばせることはできないし、そうするべきではない、と彼に教えたという。
「チームのエースになりたいのであれば、目立つ必要があり、自分の立場をはっきりさせないといけません。そうでなければ、誰もついてこないでしょう。サイクリストとしても、彼氏としても、父親としても」
「私は最初から言っていました。いつもみんなを喜ばせるような人とは一緒にいられないって」
「私はヨナスのサイクリング以外の仕事の整理を手伝っています。私は少し年上なので、彼が集中する必要のない分野で、責任を負うことができます」とトリーネは言う。「ヨナスは自分の感情を隠す傾向があります。私達は一緒に、彼が態度や感情について、もっとオープンになるように取り組んできました。そうすれば、常に私が決めることもなくなります」
「ヨナスが他の人の良い模範となることが、家族にとって重要です」
2022年3月、監督メリイン・ジーマンはこう述べた。
「ヨナスがどれほど真剣か、どれほどプロフェッショナルかを見ると、一歩前進したことが分かります。昨年、私達は彼を少し守ろうとしましたが、今は、彼が自分自身や他人の期待に対処できるように助けることが大事です。多くの面で、成熟が必要です。特に、必要な時に実行できること。プリモシュ・ログリッチとワウト・ファン・アールトにはそれができます。私達は今、ヨナスにも同じことをして欲しいと思っています」
【2022年ツール・ド・フランス】
2022年7月、25歳のヴィンゲゴーは、地元デンマークの首都コペンハーゲンで開かれたツール・ド・フランスのプレゼンテーションに臨み、大喝采を浴びた。昨年とは違い、ログリッチとのダブルエースとしての出場だったが、デンマークメディアは結局は譲らされるのでは、と例によって噴き上がっていた。
ユンボ・ヴィスマの監督メリイン・ジーマン「私達は年間計画を色で示しています。緑色の選手はアシストです。黄色は自由な役割があり、赤はリーダーの役割です。ヨナスのレースカレンダーには赤しかありません」
本人「もちろん、今年は去年よりプレッシャーがかかっています。世界最大のレースで、エースの一人ですから」
インタビューに答えたヴィンゲゴーには、新たな地位や大きな注目に苦しむ様子は見受けられない、とメディアは語った。「プレッシャーはそれほど気にしていません。以前は問題を抱えていましたが、もう大丈夫です。ストレスに関しては問題ないと思います」
7月6日、試合前から注目されていた石畳区間を含む第5ステージ。
「最悪の1日だった」とヴィンゲゴーは言った。「プリモシュはもっとひどくて、転倒してしまった。僕もアンラッキーだった」
ヴィンゲゴーのバイクのチェーンが外れ、それを見た身長193cmのチームメイト、ナータン・ファン・ホーイドンクは「ヨナスのバイクを急いで修理しようとしましたが、代わりにヨナスが自転車に飛び乗ったんです」監督グリーシャ・ニアマンは説明した。ヴィンゲゴーはサドルに座ってペダルを踏むことすらできなかった。再度ステフェン・クライスヴァイクのバイクに乗り換えたところにチームカーが到着、自分のスペアバイクに乗り換えた。「ちょっとパニックになってしまった。一日中緊張していました。今思えば、もっと違うやり方をするべきでした」
その後、ログリッチがコース内に飛んできた緩衝材を避けきれず落車。左肩を脱臼し、自分で元に戻したが、腰と背中も痛めた。
マイヨ・ジョーヌを着ていたワウト・ファン・アールトを含むアシスト陣は、必死にヴィンゲゴーをメイン集団まで引き上げ、ポガチャルとのタイム差を約1分から13秒まで縮めてゴールした。しかし、ログリッチは1分55秒のタイムロスとなり、総合7位から44位まで沈んだ。
監督フランス・マーセン「正しい判断ではなかった。セップ・クスのバイクに乗るべきだった。でも、ここぞというときに正しい判断ができるとは限らない」
後にヴィンゲゴーは、この時のバイク交換騒動について、当時は笑うどころじゃなかったが、「見たことないなら、YouTubeで検索したほうがいいよ、今年一番の笑い話だから」とゲラント・トーマスにオススメしている。
また、その後のアシスト陣による引き上げについて「ワウトはイエロージャージを犠牲にしたんだ。もちろん、実際はその後もキープしたけど、あの時はどうなるか分からなかったんだから」と語っている。
7月8日第7ステージ。ヴィンゲゴーはプランシュ・デ・ベル・フィーユの24%の激坂でアタックしたが、最後の数メートルでポガチャルのスプリントに敗れた。
この結果にユンボ・ヴィスマには楽観論が広がった。
監督グリーシャ・ニアマン「優勝できなかったのは残念だが、ポガチャルが勝つと確信していた。彼にとって完璧な登りだからね」
セップ・クス「ポガチャルの方がはるかに有利なフィニッシュで、ヨナスはポガチャルに迫ることができた」
本人「残り100メートルで勝てると思って頑張ったけど、最後の20メートルで彼が来て、応えられなかった。後悔はしていない」
この結果、ヴィンゲゴーはポガチャルとは35秒差の総合2位に浮上した。
そして迎えた7月13日。標高が高く、大会最難関との前評判のグラノン峠頂上フィニッシュの第11ステージ。
ユンボ・ヴィスマは最初の1級山岳テレグラフ峠からペースを上げ、次の超級ガリビエで、ログリッチとヴィンゲゴーが交互に波状攻撃を繰り返した。
監督メリイン・ジーマン「テレグラフ峠の登りで、プリモシュとティシュがアタックした。その結果、ポガチャルのチームメイトはついていけなくなった。ガリビエの平坦区間で、ヨナスとプリモシュが交代でアタックした。ポガチャルは何度も反応しなければならなかった」
ヴィンゲゴーは最後の登り、超級グラノン峠の残り4.5キロ地点からアタックした。それまですべてのアタックに元気に反応していたポガチャルは反応できなかった。独走したヴィンゲゴーは先行する選手達を追い抜き、初のツール・ド・フランスステージ優勝と、リーダージャージを獲得した。調子を崩したポガチャルは、最後の5キロで3分弱を失った。
「この山がヨナスに合っていることは分かっていました。彼はラスト5kmでアタックをかけるつもりだったし、自分を信じていたから5km地点ですぐに走りました」「ヨナスがこれほど時間を稼ぐとは思ってもみませんでした」監督グリーシャ・ニアマンは興奮気味に語った。「私達はレースをハードにしたかった。ガリビエでは全力を出し、それが最後の登りで実を結びました」
「ヨナスのアタックに、ポガチャルはもうついていけなくなりました。グラノンで大丈夫でも、翌日にはついていけなかったでしょう。その場合の翌日の計画も用意していました」後に監督メリイン・ジーマンは語った。
優勝後のインタビューで、ゴールした数分後には携帯電話を耳に当てていたことを聞かれたヴィンゲゴーは、満面の笑みで答えた。
「ガールフレンドに電話していました。彼女は僕のすべてです。彼女と娘なしでは、絶対にできなかったでしょう。2人は僕にとって一番重要なんです。だからまず最初に電話しました」
デンマーク人がツール・ド・フランスでマイヨ・ジョーヌを獲得したのは、2007年以来だった。
マグナス・コルト「グラノン峠を登っている時に聞いた。デンマーク人の観客が道端で熱狂していて、ヴィンゲゴーがイエローだって叫んでいたんだ。それで僕も元気が出たよ」
「彼は笑顔が素敵で、いい奴だよ。いつも軽く一言挨拶してくれる。物静かで穏やかだけど、総合争いをしてるから、僕よりストレスを感じてるだろうね」
第15ステージを前に、ログリッチは怪我の影響で棄権した。
監督フランス・マーセン「日に日に悪化していった。だから決断したんだ。数日前から話し合っていたので、こうなることは予想していたことだった」プリモシュにとって、ヨナスの助っ人を任されることは精神的に難しかったのか、と聞かれたマーセンはこう答えた。「いや、彼はヨナスにとって父親のような存在なんだ。ヨナスはツールで勝てる、と最初に言ったのはプリモシュだった。彼はヨナスの力になっていた」
7月17日第15ステージでは、ステフェン・クライスヴァイクが落車でリタイア、ヴィンゲゴーも転倒した。監督メリイン・ジーマンは、ヴィンゲゴーの怪我は大したことない、と語ったが、実際はステージ終盤はペダルを漕ぐのが困難だったという。「幸い、翌日はそれほどひどくありませんでした。まだ痛がっていましたが、休息日の練習後にはおさまっていました」
マイヨ・ジョーヌのヴィンゲゴーは、表彰式のため、帰りは遅くなると考えていた。「チームのみんなより、3時間は遅くホテルに着くと思っていました。でも今は幸い、毎日山から降りる時に警察のエスコートがあるので、チームの中で一番早くホテルに着くのはほとんど僕なんです」
「去年は白ジャージでしたが、黄色いジャージを着て走るのは最高にクールです。応援してくれる人も増えたし」
「小さな違いを感じます。昨日転けた後にプロトンに戻る時は、イスラエルの選手ヒューゴ・ウルが助けてくれました」
マイヨ・ジョーヌのストレスに対処する方法を問われたヴィンゲゴーはこう答えた。
「ガールフレンドに新聞を読むなと言われました。だから、もう新聞は読みません」
ユンボ・ヴィスマは2人、UAEは4人選手が減った中で続いた第16、17ステージ。ポガチャルの度重なるアタックに反応したヴィンゲゴーは、問題なくリーダージャージをキープした。
グリーシャ・二アマンが「世界最高の山岳アシストの1人」と呼ぶセップ・クスはこう語った。
「最前列で見ていると、彼らの攻撃はクレイジーです。でも、日曜日に転倒したにも関わらず、ヨナスは本当に調子が良さそうです」
「ここ数年のリーダーとしてのヨナスには感心します。チームに加わった初日から、彼が大きく成長するのを見てきました」
7月21日山岳最終ラウンドの第18ステージ。1級山岳スパンデルで抜け出したヴィンゲゴーとポガチャルは、狭くて危険な下りを先頭で下った。ヴィンゲゴーはコーナーを抜ける際に、バイクのコントロールを失って転倒しそうになったが、何とかこらえた。その直後、ポガチャルが左コーナーで大きく外れ、砂利道に落ちて転倒した。ポガチャルが落車したことに気づいたヴィンゲゴーは「すぐに待つべきだと判断しました」。追いついたポガチャルはヴィンゲゴーに手を差し伸べ、その後再び戦いを再開した。
監督メリイン・ジーマン「最後の登りに入る前の下りで、ヨナスはポガチャルに大きなプレッシャーをかけられ、危うく転落しそうになりました。レース無線が下りのあちこちに石が落ちていると警告していた時に、ポガチャルがアタックしたので腹が立ちました。最終的にリスクを負いすぎて転倒したのはポガチャルでした」
「前日、チームUAEは突然強くなり、ヨナスは孤立し、ポガチャルがステージ優勝しました。そこで私達は、ヨナスを助けるために、ワウトを前に送り出すことにしました」
最後の超級山岳オタカムの登りで、グリーンジャージのワウト・ファン・アールトがチームメイトからヴィンゲゴーの牽引を引き継ぎ、ポガチャルを引き離した。
監督メリイン・ジーマン「ワウトは、オタカムのどこがヨナスにとって大きな価値があるかを知っており、その地点でヨナスを待ちました」
こうして「グリーンジャージが山岳でイエロージャージをひく」という珍場面が現出した。
残り4kmで単独になったヴィンゲゴーは、オタカムの頂上フィニッシュで、2位のポガチャルに1分以上の差をつけた。
「チームメイト全員に感謝しています。ワウト・ファン・アールトがタデイ・ポガチャルを倒しました。今日はみんな、信じられないくらい素晴らしかった」
「今朝、ガールフレンドと娘に、2人のために勝ちたい、と言いました。そして、勝ちました。本当に嬉しいし、誇りに思います」
ジーマン「ヨナスはあの瞬間、待つことにしました。それは彼自身の選択でした。私は進んでよいと思いました。もしヨナスが転んでいたら、ポガチャルは待ちはしなかったでしょう。振り返ってみると、ヨナスが待ったことは素晴らしく、彼の勝利にさらに輝きを与えました」
7月23日の最後の個人TT。3分26秒という大差がついていたものの、2年前のトラウマを抱えるユンボ・ヴィスマはピリピリしていた。
「心臓発作を起こしそうになりました」最後の下りで転倒しそうになったヴィンゲゴーは笑った。「賭け過ぎた、という感覚はなかったです。ターンに入るところでラインを間違えて、溝に落ちそうになりました。道路もかなり穴だらけでした」
監督メリイン・ジーマン「タイムトライアルで、ヨナスはワウトにどれほど感謝しているかを示しました」
最終走者のヴィンゲゴーを迎えに出て、涙を流したワウト・ファン・アールトが、このステージの勝者となった。
「去年からずっと、自分にはできると信じてきました。そして今、それが実現しました」優勝を決めたヴィンゲゴーは述べた。
「フリーダはあまり分かっていませんが、歓声と拍手とキスをするパパをスクリーンで見ることができることは分かっています」
「ヨナスには、ツール・ド・フランスの間にフリーダがパパと言えるようになると約束しました。フリーダがパパと言えるようになることと、自分がツール・ド・フランスで優勝することのどちらがヨナスにとって重要かは分かりません」トリーネは笑顔でインタビューに答えた。
本人「まだ僕には言ってくれないけど、画面の僕を見て言った動画を持っています。本当に感動だよ」
7月24日、シャンゼリゼ通りのツール・ド・フランス表彰台の頂点に立ったヴィンゲゴーは、チームメイト全員の名前をあげ、「incredible」を11回使って優勝スピーチを行った。ユンボ・ヴィスマは、総合優勝と水玉ジャージ、緑ジャージ、6つのステージ優勝を勝ち取った。
「今日はデンマークの半分がここに来たような気がしました」とヴィンゲゴーは述べた。
ミッケル・オノレ「ツール・ド・フランスが始まる前、バスのそばでチームメイトと誰が優勝するか、賭けをしました。僕はヨナスに賭けたけど、誰も信じませんでした。でも、結局は僕が勝ちました」
「彼は同じデンマーク人なだけでなく、良き友人でもあります。チームメイトではないけど、ヨナスが勝つことは、僕にとって凄く大きな意味があります。彼は人として素晴らしいし、凄い才能の持ち主です」
「火曜日はオランダへ、水曜日はコペンハーゲンへ、木曜日は故郷へ、金曜日からは一週間ソファで過ごす予定です」と、ヴィンゲゴーはフリーダを膝の上に座らせてインタビューに答えた。「勝てるという気持ちは常にありました。ずっとそう信じていましたが、オタカムの後は、本当に信じるようになりました」
7月27日、コペンハーゲン空港に着いたヴィンゲゴーは、市庁舎広場までオープンカーで移動した。何千人ものデンマーク人が道路に列をなし、ハイタッチを求めた。「石畳ステージの後よりも痛いぐらいでした」
コペンハーゲン市庁舎のバルコニーに立ったヴィンゲゴーは、数分間、市庁舎広場に集まったデンマーク人の拍手を楽しんだ。「見渡す限り人がいました。本当に感動しました」
この時、ツール・ド・フランスに出場した他のデンマーク人選手達も市庁舎に招かれた。
2019年にロード世界チャンピオンになった時に、市庁舎に招かれたことのあるマッズ・ピーダスン「バルコニーに出るには、世界選手権だけでは足りなかった。だからヨナスには感謝しています」
Odder Cykelklubでヴィンゲゴーと一緒に走っていたカスパー・アスグリーン「ヨナスはとてもいい子です。当時、彼と一緒でとても楽しかったし、今でもプロトンで話をしています」
母カリーナ「デンマークでは、誰もがヴィンゲゴーを、醜いアヒルの子が美しい白鳥に成長するアンデルセンのおとぎ話に例えます。今起きていることは、誰も信じられません」
「ヨナスがベストの状態でいるためには、心地よく感じる必要があります。ユンボ・ヴィスマは彼が自分自身に満足していることを確認してくれます。人々がヨナスに向かって何か叫んだり、指を向けたりしたら、うまくいかなかったでしょう」
「彼はとても繊細なんですね」と聞かれたカリーナは、はい、と答えた。
ツール・ド・フランス優勝後、ツアー・オブ・デンマークや9月の世界選手権に出場せず、メディア露出がなかったことで、ヴィンゲゴーには精神的な問題があるという噂が流れた。
本人「自分は優先順位をつけるのが上手だと思います。僕は何よりも家族を優先してきました。他の人が何を考えているかは、本当に気にしていません」
トリーネ「最初はヨナスを指導するのが私の役目だとは思っていませんでした。でも、彼が緊張と闘い続けているのを見ていたので、私達は緊張を恐れるのではなく、受け入れる計画を立てました」
「ヨナスはとても内向的で、自分を忘れて他人を幸せにしようと常に考えている人です。長い間、彼は他人に決めさせてきました。でも、今では、チームと上手にコミュニケーションをとるようになりました」
「私は自転車の話ばかりの会話に、少々うんざりしていました。ヨナスは大人になるべきだと思いました」
「家の周りの雑用をこなすことで、ヨナスは自分がサイクリング以外にも得意なことがあることに気づきました。ありのままの自分で十分だと信じるように、と彼に言いました」
本人「35歳や40歳までレースを続けるつもりはありません」
トリーネ「下降線を辿っていたり、自分はもう上手くない、若い選手達についていけない、と嘆いている男を引っ張り出すのは、私には難しいです」
2023年3月、パリ〜ニースに出場したヴィンゲゴーは、初めてジャージにゼッケン1番をつけた(前年のパリ〜ニースを制したのがログリッチだった)。
監督グリーシャ・二アマンは、意図していたことではなかった、と述べた。
「スタート前のチームミーティングでは、エドアルド・アッフィニをゼッケン1番にしていました」
「でもその1時間後、スタートゼッケンを受け取ると、ASO(ツール・ド・フランスやパリ〜ニースの主催者)はヨナスを1番にして欲しくて、変更していました」
「ヨナスにゼッケン1番が嬉しいか、プレッシャーを感じるか聞いてみましたが、そんなことは気にしていませんでした」
「昨年のツール以降、社交的になったとは言えませんが、彼は周りのプロトンともっと話すようになりました」この時のパリ〜ニースを制したポガチャルは、ヴィンゲゴーについてこう語った。「2年前よりも少しリラックスしています」
2023年4月18日、ヴィンゲゴーは2024年までのユンボ・ヴィスマとの契約を3年延長した。
本人「契約の延長は心の平安と、自分の目標にさらに集中する機会を与えてくれました」
昨年7月にマイヨ・ジョーヌを獲得して以来、ヴィンゲゴーの静かで人目を避ける性格の変化にチームは気付いた。
「ツールで優勝した時、ヨナスの肩から何かが落ちたと思います」監督フランス・マーセンは述べた。「以前は緊張して安定を保つのに苦労することもありましたが、今では自分が世界最高の選手の一人だと自覚しています。レベルが非常に高いため、レースがしやすく、そのため自分が最高のクライマーだと分かっているのです」
マーセンは、ヴィンゲゴーの成長を辛抱強く待っていた、と語る。
「私達はヨナスを素晴らしい才能の持ち主だと見ていました。彼は多くの犠牲を払い、文句を言わず、たゆまぬ努力家です」
「彼にとってツールで優勝したことは本当に重要でした。今はもっと楽になり、レースを楽しんでいます」
「26歳の彼には、まだ改善の余地があります。他の23歳や24歳は既にピークに達していますが、ヨナスははるかに新鮮です。10代の頃にハードなトレーニングをしていないので、進化が遅かったのです」
「彼は、自分が自転車競技に特別な才能を持っていることを分かっています」
「ヨナスは昨年ツールで優勝した時に新たなレベルに到達しました。彼は今年もそれをやってのけました」
「以前より完成度が高く、下りも上手になっています。スプリントではポガチャルほど速くはありませんが、それでも速く、優れたクライマーです。そして、エースとしても成長しています」
昨年のツール・ド・フランス以前は、2019年にプロに転向して以来、7つのレースでしか優勝していなかったヴィンゲゴーは、2023年は2月のグラン・カミーニョ、3月のパリ〜ニース、4月のイツリア・バスク・カントリーの計17日間のレースで、チームTTを含め、9つのレースで優勝した。
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「ヨナスは何も特別なことや特別扱いを必要としません。彼はとても気楽な性格で、必要なのは速くて軽いバイクだけです。正確なのはセッティングだけです」
「ヨナスは後ろにいることが多いですが、必要なときは前に出ます。それ以外の時は、単なる選手の一人です」
「私達には明確な取り決めがあります。あなたは何もしなくていいのよ」
トリーネは、ツール・ド・フランスでのワウト・ファン・アールトのように、ヴィンゲゴーを外界から守るつもりだと、インタビューで語った。
「ヨナスは『ノー』と言うべきではないんです。彼はそれを悪いと思っていますから」
「私は『そういうものだ』と思います。だから引き受けます。そうすれば、ヨナスは他のことに集中できます」
「人には意見を言う権利があります。私はそれに対しては何もできません。選択肢は2つ、人の言うことに耳を傾けるか、傾けないか。100のうち99で、私は聞かないことにしています」
「他の人のことは考慮しません。それではツール・ド・フランスで勝つことはできませんから」
相変わらずお強い。
6月8日、クリテリウム・デュ・ドーフィネの第5ステージで優勝したヴィンゲゴーは、ゴールラインを越える時に指輪にキスをしたことで、メディアに結婚したのかと問われ、「結婚しています、はい」と答えた。しかし、お互いにいつイエスと言ったかについては、言いたくない、と語らなかった。
一方でヴィンゲゴーは、記者会見で「起きたことに衝撃を受けています」と涙を浮かべた。その日の朝、近くの町アヌシーで、男が大人2人と幼児4人をナイフで刺す事件が起きた。
「僕にも娘がいて、アヌシーにいることもあります。今日のような日には、サイクリングや勝負には何の意味もありません」
同じ頃、デンマークの元選手、監督のビャルネ・リースはこう述べた。
「ヨナスは今年、ツール・ド・フランスで優勝しなければならないことを、誰にも証明する必要はありません。彼がエースであることは誰もが知っています。このことはヨナスにとって非常に重要なことだと思います。基本的に一人の男を倒すことだけに集中すればいいので、ストレスが少ないからです」
グリーシャ・ニアマンは、プリモシュ・ログリッチとワウト・ファン・アールトがヴィンゲゴーの助けになったと指摘し、こう述べた。
「ヨナスはレース中に無線でコミュニケーションをとるのがずっと上手になりました。以前は何も言いませんでしたが、今はもっと率直になりました」
「自分がポジションにいなくて、誰かが彼を待たなければならない場合、恥ずかしがらずにそう言います。チームメイトが自分のために頑張ってくれた時に褒めるのも上手です」
「ヨナスの妻は、彼に自信を与え、世界最高の自転車選手になれるし、世界最大の自転車レースで優勝できる、と信じさせる上で、大きな役割を果たしています」とニアマンは説明する。「今のヨナスはとても自信を持っていて、自分が何を達成できるかを知っています」
二アマンは、ヴィンゲゴーは他の選手と比べると、やや変わっているとも述べた。「ヨナスはツール・ド・フランスで注目が自分に集中している中で、靴下が綺麗な白でなくなっていても、ビルケンシュトックのサンダル姿でも気にしません」
「ヨナスには少し注意散漫なところがあります。シャツを忘れても心配しないし、いつもちゃんと足の毛を剃るよう、注意しなければなりません」
2017年にジロ・デ・イタリアを優勝した後、外界が自分に何かを求めるチャンピオンという地位は、自分には全く合わない、と述べたトム・デュムランと比較すると、ヴィンゲゴーには特に問題はなさそうだ、とメディアは報じた。
本人「去年の冬は、頼まれごとを断らなければいけないことが多かったです。人を失望させなければならないことを、以前は難しいと感じていましたが、それに対処する方法を学びました。物事を断ることで、自分を守らなければいけないことは分かっています。 2021年のツール2位がそれを教えてくれていました。僕が何かを断ったために、人が僕について意見を抱くことは構いません。今では簡単に気にしないようにできます」
2022年のツールについて聞かれたヴィンゲゴーは、ログリッチがリタイアした後の第15ステージが一番難しかった、と答えた。
「3年前から彼はチーム内での僕の指導者でした。 彼がチームに、僕がツールで優勝できる可能性がある、と伝えた時、僕自身はそれを信じていませんでした」
【2023年ツール・ド・フランス】
2023年7月1日、ヴィンゲゴーはディフェンディング・チャンピオンとしてツール・ド・フランスに臨んだ。
「ゼッケン1番でスタートすることは、自分に一定のプレッシャーを与えることになることは分かっています。でも気にはしていません。自分を信じて頑張らなければいけません。それがチーム内での私の役目です」
翌日の第2ステージでワウト・ファン・アールトがステージ勝利を逃し、ファン・アールトの牽引に加わらなかったことで、ヴィンゲゴーに批判が向けられた。
7月5日、最初の山岳ステージとなる第5ステージ。1級山岳マリー・ブランクで、ヴィンゲゴーは試しにアタックし、ポガチャルに対して約40秒の差をつけ、その後の下りと平坦でリードを1分4秒に広げた。
ゴール後、彼女のウルシュカ・ジガートがジロ・デ・イタリア・ドンネで転倒したことを聞いたポガチャル「脳震盪を起こした可能性があります。ヨナスに1分を失うことより悲しいです」
翌7月6日、山頂フィニッシュの第6ステージ。ユンボ・ヴィスマの高速牽引により先頭はヴィンゲゴーとポガチャルの2人に絞られたが、ラスト2.7kmでポガチャルが飛び出し、そのまま逃げ切った。24秒の差がついたが、ヴィンゲゴーはここでマイヨ・ジョーヌを手にした。
本人「イエロージャージをまた手にできて、本当に嬉しいです。でも、もちろん、タデイについて行きたかったです。最後の登りの彼は本当に強くて、優勝にふさわしいです」
「ええ、僕たちは......えっと、よく覚えていません」ステージ後の記者会見で、見に来ていたマクロン大統領と何を話したかを聞かれたヴィンゲゴーは、世界の報道陣を笑わせた。「また会えて良かったと言ってくれました。去年のツール・ド・フランスの17か18ステージで会ったことを覚えていてくれたんだと思います。残りのレースも頑張って、と言ってくれました」
この頃、アンディ・シュレク(2010年ツール・ド・フランス優勝者)の発言がデンマークで炎上した。
「ヨナスはとてもシャイで、多くを語らず、自分をあまり出さない。一種の傲慢さを感じさせる」
「タデイはジョークを言ったり、笑ったりしている。ツール・ド・フランスの優勝候補の中で、これほど対照的な2人は記憶にない」
7月8日の記者会見でアンディ・シュレクの発言をどう思うかと聞かれたヴィンゲゴーはこう答えた。
「彼には自分の考えを言う権利がありますし、僕は彼が何を考えているかは気にしません。傲慢と言われるとは、全く予想していませんでした」
「僕は内気ではないと思いますし、現場ではみんなと話しています。でも、一番大きな声を出すのは僕ではないかもしれません」
キャリアの大部分をデンマーク人のビャルネ・リースが監督を務めるチームで過ごしたアンディ・シュレクは、発言を訂正した。
「ヨナスは出てきて帽子にサインをしますし、傲慢とは正反対といえます。私はそんなことは全く言っていません」
「私の心は今でも半分デンマーク人です」
「タデイ・ポガチャルと比べると、ヨナスは内気なようだと言いました。ポガチャルは登りで攻撃する許可を求めませんが、ヴィンゲゴーは計画を持っていると思われるチームに囲まれています」
7月9日、第9ステージの超級ピュイ・ド・ドーム山頂ゴールで、ヴィンゲゴーは残り1.5kmでアタックしたポガチャルに8秒の差をつけられたが、マイヨ・ジョーヌは17秒差で維持した。この後、メリイン・ジーマンがヴィンゲゴーを励ます様子を、アマゾンのドキュメンタリーAll-In: The Trilogyで見ることができる。
「これまで以上にひどい状況です」ツアーで義務づけられているマイヨ・ジョーヌの記者会見に、ヴィンゲゴーは毎日出席していたが、質問に対する答えが「刺激がなく、短い」ことで、記者たちは不満を感じはじめた。
4月のイツリア・バスク・カントリーでヴィンゲゴーを取材したイギリス人記者マーシャル=ベルはこう懸念を表明した。
「イツリア・バスク・カントリーでは、英語を話す記者はおそらく私だけだったので、ヨナスとかなり話しました。私が見た彼の中では、最もリラックスしていました。少し冗談を言ったり、一言以上のことを教えてくれました。自分がこう書いたのを覚えています。『この男は変わった』と」
「それなのに、ツールになるとヨナスのコミュニケーションはこれまで以上に悪化しました」
「今年のツールで彼が大きなプレッシャーにさらされていることはよく分かっています。でも、世間の印象が傷ついたのではないかと心配です」
「ヨナスは我々に何も与えてくれません。クリス・フルームの時のように、日に日に状況が悪化することを私は本当に恐れています。彼にそのようなことが起こって欲しくないのです」
「例えば、ポガチャルの様子はどうですか、とヨナスに聞く時、もちろん我々は彼がタデイの様子や気持ちを正確に知っているとは期待していません。でも、失礼にならずに返答する方法はあります。ヨナスは2日連続で『タデイに聞いてください』とだけ答えました。 人々がメディアを通じて彼を認識する、ということを彼は理解しなければなりません」
「ヨナスは素晴らしいサイクリストですが、自分の行動を変える必要があります」とマーシャル=ベルは結論づけた。
デンマーク人の元選手・監督ビャルネ・リースは「ヨナスが誤解され、より優れた天性のコミュニケーション能力を持つポガチャルと絶えず対立している責任の大部分は、ユンボ・ヴィスマにある」と述べた。
「メディア関係でヨナスを十分に助けていますか?ヴィンゲゴーが実際どのような人物なのかを人々に十分理解させようとしていますか?」と問われた監督メリイン・ジーマンはこう答えた。
「マイヨ・ジョーヌを着てゴールしたら、表彰式後に報道陣の前を通らなければなりません。他の選手たちは帰りますが、ヨナスは今も現場にいて、少なくとも30分は待機し、世界中のメディアからの質問に対応しています」
「私たちはNetflixシリーズを制作し、アマゾンのドキュメンタリーを制作し、本を出版しました。 私たちのチームほど透明性の高いチームはないと思います」
7月14日の第13ステージは137.8kmと短く、最後の超級グラン・コロンビエールまでは平坦なステージだった。残り500mでアタックしたポガチャルは、ヴィンゲゴーに4秒差をつけてゴール。ボーナスタイムと合わせて、差を8秒縮め、総合での秒差は9秒となった。
本人「自分に全く合わないステージだったので、タイムロスがそこまででなくて、本当に良かったです」
「勝てなかったとしても、それはそれでいいのです。ただ最善を尽くして、どうなるか見るだけです」
「気分はとても良いです。体調も良く、日に日に良くなっているように感じます。自分とチームの走りに満足しています」
「僕は自分を、自分の強みだと思うものを常に信じています。今後数日をとても楽しみにしています」
7月15日第14ステージ、最後の超級山岳ジュー・プラーヌの登り。ワウト・ファン・アールトの牽きで先頭グループの人数が減少したところで、UAEのラファウ・マイカが牽きはじめ、一旦ワウトが脱落したように見えた。しかし、ワウトは集団後方から再度前に上がってきて牽引し、マイカを振り落とした。
残り15kmでポガチャルがアタックし、一旦は差がついたが、ヴィンゲゴーは追いついた。山頂まで数百メートルのところで、ポガチャルが再度アタックしたが、観客に前を塞がれたバイクが加速できず、アタックを阻まれた。その後ヴィンゲゴーがアタックして、頂上をトップ通過。ゴールまでの下りでは差がつかなかったが、頂上通過時のボーナスポイントで1秒をゲットした。
記者会見でバイクの件について聞かれたヴィンゲゴーは「いいえ、歴史が示しているように、ツールが数秒で決まることはほとんどありません。長くてハードなステージでは常に何かが起こります」と述べた。
デンマーク人記者は、ジュー・プラーヌの登りで、ヴィンゲゴーはデンマーク人の観客の前を通るたびに、ドリンクボトルを投げている、とリポートした。「ツールで最も急な登りを登っているというのに、デンマーク人を見つけてはドリンクボトルを渡す彼は、あまりにも優しい」
ちなみに、このステージでヴィンゲゴーは「公共の場での放尿」により、200スイスフランの罰金を科されている。
翌日の1級山岳3つを含む山頂フィニッシュの第15ステージでは、タイム差はつかなかった。第5ステージでポガチャルに対してつけた1分4秒のタイム差は、第6、第9、第13ステージで少しずつ削られ、今や10秒になっていた。
そして迎えた7月18日第16ステージ個人タイムトライアル。最後から2人目に出走したポガチャルは、第1計測地点でトップタイムを25秒更新した。しかし、2分後にスタートした最終出走のヴィンゲゴーは、第1計測地点でさらに16秒更新し、第2計測地点では、その差は31秒に拡大した。
2分前にスタートしたカルロス・ロドリゲスを捕らえながら、ポガチャルは暫定1位のファン・アールトを1分13秒上回ってゴールしたが、その直後、ヴィンゲゴーが1分38秒差をつけてゴール。全世界を驚愕させた。
ステージ3位のワウト・ファン・アールト「人間の中では私が一番速かった」
しかし、ヴィンゲゴー自身は、ポガチャルとの差が何秒かは正確に把握していなかった。チームカーから中間タイムについて聞かされていなかったのだ。
「時差については一度も教えてくれませんでした。でも、最後には、よくやった、タデイのチームカーが見えている、と言われました。僕が本当にうまくやっているということです。さらにモチベーションが高まりました」
「ただ自分自身を信じていました。良いタイムトライアルを走れたと信じていました」
「どこかのスクリーンで、自分がタデイより1分前にいるのが見えました。それで自分がうまくやっていることは分かりました。でも、ゴールラインに着いた時、自分がはるかに先を行っていたことに驚きました」
監督グリーシャ・ニアマン「数字はまだ見ていませんが、非常に速かったし、間違いなくヨナス史上最高のタイムトライアルでした。私たちは彼の能力が分かっていました」
本人「これまで自転車に乗ってきた中で、最高の1日の一つだったと思います。途中でパワーメーターが壊れているのではないかと思いました」
「僕たちはこのために長い間準備してきました。自分が本当に良い状態にあることは分かっていました。今日、すべての努力が報われました」
トム・デュムラン「本当に前例のないことで、言葉を失いました。ヨナスはワウト・ファン・アールトに対して3分、ポガチャルに対して1分半以上の差をつけました。誰一人として、こんなことは予想していませんでした。私も、ユンボ・ヴィスマも、ポガチャルも。ツアーも決まったようです」
メディアは、ヴィンゲゴーはレースは数秒で決まらないと常に主張していたが、どうやらその通りだったようだ、と報じた。
翌7月19日、獲得標高5000mを越えるクイーンステージの第17ステージ。最後の超級ロズ峠に入ると、ポガチャルが崩れた。この年、チーム無線の一部が放送されるようになり、ここでポガチャルが無線で話した“I'm gone, I'm dead”は有名になった。ヴィンゲゴーはアシストの牽引を次々に乗り継いで4位でゴールし、ポガチャルとの差を7分35秒まで拡大した。
ロズ峠の狭い道で、ケルデルマンに牽引されたヴィンゲゴーは、熱狂したファンの群れとバイクと車に囲まれ、進めなくなった。バイクが17パーセントの勾配でエンストし、バイクに阻まれて車がコーナーを曲がれなくなったためだった。
「何が起こったのか正確には分かりません。しばらく立ち止まらなければなりませんでしたが、ウィルコと僕は、幸い乗り越えることができました」
フランス・マーセンとグリーシャ・ニアマンは笑顔を見せた。「不運がなければ、ヨナスは優勝するでしょう」
「この日は、ルートが発表された時、私たちが目標としていた日でした。でも、こうなるとは予想していませんでした」
ステージ5位のダヴィド・ゴデュ(グルパマ・FDJ所属)
「彼は最強でした。間違いなく2回目のツール・ド・フランスチャンピオンになるでしょう」
地に足をつけていたのは、ヴィンゲゴー自身だけだった。
「いいえ、まだ勝ったとは言えません。ホッとしています。7分差は素晴らしいですが、まだパリには着いていません。落車やバッド・デイの可能性があります。まだ難しいステージが残っているので、全力で頑張ります」
「タデイは残り3ステージで何かを試みるでしょう。彼は決して諦めない。それに応える準備はできています」
「タデイと僕はずっと戦ってきました。もちろん、彼があんな風に倒れたのは、クールではないですが、僕たちは自分たちのことだけを考えているので、もう1日イエロー・ジャージを着続けることができて満足しています」
一方、前日のヴィンゲゴーのタイムトライアルは、新たな騒ぎを引き起こしていた。7月19日のフランスのスポーツ紙レキップは1面に「D'une autre planete」(別の惑星から来た人)という見出しを掲げた。この言葉は1999年のツール・ド・フランスでランス・アームストロングに使われたのと同じセリフだった。「彼はどうやって成し遂げたのか」と疑問を呈した新聞もあった。
記者会見でヴィンゲゴーは、ドーピング疑惑を払拭するために何を言えばよいかと尋ねられた。
「これ以上何を言えばいいのか分かりません」
「過去の経験から、サイクリングを信頼するのが難しいことは理解していますが、今は20年前とは違います」
「心の底から断言しますが、僕は何も摂取していません」
「僕は娘にあげられないものは摂取しません。そして僕は娘に薬物は与えません」
監督グリーシャ・ニアマンは、ヴィンゲゴーが禁止薬物を摂取していなことを保証できるか、と質問された。
「私は医者ではありませんし、ヨナスでもありませんが、彼は許可されていないものは摂取していない、と10万回も言っています。そのことには100%責任を負います」
「ヨナスは3日間で10回も検査を受けました」
7月19日の朝、第17ステージの前に、ヴィンゲゴーとポガチャルのチームは検査官の訪問を受けていた。両チームの選手は血液検査を受けた。
ユンボ・ヴィスマのジェネラルマネージャー、リチャード・プルッへは、チームは喜んで従ったと語った。
「このことで、我々はドーピングとの戦いに新たな一歩を踏み出しています。ヨナスは過去48時間に4回も血液検査を受けました」
プルッへは「17日の休息日に、フランスチームと同じホテルに宿泊しましたが、ビールを飲んでいる選手を見ました」とも語り、グルパマ・FDJの名物監督マーク・マディオを激怒させた。
マーク・マディオ「非常に卑劣な攻撃だ。黙ってろ。私は彼のレベルに身を落とすつもりはない。情けない」
これはメディアのドーピング疑惑をそらすためにプルッへが起こした騒動だと言われている。
また、ヴィンゲゴーとポガチャルの関係について「ツアーのタイトルを賭けた死闘を戦っているとき以外は、かなり良好な関係を保っているが、友人関係には発展していない」と報じられた。
本人「同じチームにいたら間違いなく友達になれると思います。タデイはとても良い人です」
「プライベートで友達なわけではありませんが、時々お互いに話はします」
7月22日、最後の山岳ステージとなる第20ステージは、復活したポガチャルが最後のスプリントでステージを制したが、タイム差はつかず、ヴィンゲゴーは2年連続の総合優勝を決めた。
このステージでは、ヴォージュ山でユンボ・ヴィスマのチームカーが、ティボー・ピノ(グルパマ・FDJ所属)のファンに包囲され、ブーイングを受ける、という事件が起きた。ジェネラルマネージャー、リチャード・プルッへの発言が原因だった。
ありきたりの定型解答しかしないと評判が悪く、「この面倒なことがどれだけ嫌いなのかを正確に説明してもらいたくなる」と記者に言わしめた毎日のマイヨ・ジョーヌ記者会見で、この日ヴィンゲゴーは「ツールの後は何をするつもりか」という質問に、笑みをこぼしながら「ドゥルムを食べる」と答えた。
ドゥルムとは、ケバブ肉と野菜をトルティーヤで巻いたトルコ料理である。
また、デンマークのフレデリク皇太子から電話がかかってきたことも明かした。
「妻のトリーネに電話をかけて、ツールで2連覇したのは感動的だと言ってくれました。とても喜んでいました」
優勝記者会見で、今年完璧だったのは、完璧な準備のおかげだ、とヴィンゲゴーは述べた。
「昨年は春に多くの怪我や病気に見舞われましたが、今年はそれがありませんでした」
「僕は成長し、どんどん良くなっています。突然20%向上したわけではありません。少しだけです」
「僕が結果を出し始めたのは2年前からです。以前は悪い選手ではありませんでしたが、プレッシャーに対処する方法を分かっていませんでした。実のところ、そのほとんどは、自分が自分に課したプレッシャーでした」
「対処法を学ぶと、その瞬間から勝ちはじめ、表彰台に立つようになりました。すべてにおいて、より自信を持つようになりました」
「チームとしても、もっと自信を持つようになりました。僕達は自分達の強みをよく知っており、それを最大限に活かす方法を知っています」
ユンボ・ヴィスマの密着本を書いたオランダ人ジャーナリスト、ナンド・ボアースは、ヴィンゲゴーは厳しい言葉を使ったり、腕を振ったりすることなく、チームメンバーの尊敬を勝ち取ったと述べた。
「ヨナスが無線やチームメイトに向かって叫んだり、傲慢な態度をとったりするのは聞いたことがありません。彼は彼らを信頼しており、彼らもヨナスを信頼しています。しかし、明らかにヨナスは、自分が何を望んでいるのかを分かっています」
「レース中のチームとのコミュニケーションから、ヨナスが大きな自信を持っていることは明らかです。その自信が、チームメイトと話す時の助けになっています。ヨナスは自分ができること、そして勝つためには彼らの助けが必要であることを分かっています」
「もちろん、一番大事なことは、ヨナスが優れたアスリートであることです。つまり、能力があると同時に、より良くなりたいという強い意欲も持っています。ヨナスは信じられないほど勉強熱心です。それがおそらく最も重要なことだと思います」
「ヨナスは自分に厳しく、自分に大きな信頼を寄せています。それは見せて回るようなものではないかもしれませんが、ツール・ド・フランスで優勝できるだけの実力があることを分かっています」
第17ステージ終了後、ワウト・ファン・アールトは第2子の出産に立ち会うため、ツールをリタイアした。7月23日、ユンボ・ヴィスマの選手達がチーム賞の表彰台に上がった時、ヴィンゲゴーはファン・アールトの背番号6のゼッケンを手にしていた。
「彼がいなければ僕たちは何もできませんが、彼なしで続けなければなりませんでした」
キャンピングカーでフランスを廻り、ツールを観戦していたヴィンゲゴーの両親は、息子がシャンゼリゼ通りの表彰台の頂点に立つ姿をこの年初めて見た。
ツール終了翌日、ヴィンゲゴーは小さな黄色いジャージを手に、ベルギーのファン・アールトのもとを訪れた。
「ワウトに会って、すぐに様子を聞くことができて、とても嬉しかったです。子供が生まれたばかりだったので、どうだったか聞きたかったのです」
ツール・ド・フランスのメインスポンサー、シュコダ社のデンマーク支社ディレクター、トーマス・ブルーン
「2年連続で、ヨナスは私たちに決して忘れられない経験を与えてくれました。当然のことながら、彼はデンマークで祝福されるに値します。20回目の誇り高いスポンサーとして、私たちはもちろんヨナスのためにさらに努力します」
シュコダ社はヴィンゲゴーを専用機に乗せてデンマークに送り、その後特別車でコペンハーゲン市庁舎まで運んだ。
ツール・ド・フランスの記者会見で「(ツール後に)ドゥルムを食べる」と言ったため、ヴィンゲゴーは空港でデンマーク国営放送TV2から、市庁舎ではコペンハーゲン市長からもドゥルムを渡されるはめになった。
「自分がツール・ド・フランスで2年連続優勝したと理解するのはまだ困難です」
「5年前に誰かにそんなことを言われても、信じられなかったですし、間違いなく信じませんでした」
「昨年は自分を信じる信念を持っていましたが、今年のツールでは、その信念が試されました。僕たちにとっては、厳しい戦いでした。ポガチャルに次々とタイムを奪われた時期もありました」
ジュニア選手として特に成功していないヴィンゲゴーは、市庁舎で子供たち向けにもメッセージを伝えた。
「自分自身を信じ続けなければなりません」
7月27日、地元グリンゴールで祝賀会が開かれ、26000人が集まった。帰る前にヴィンゲゴーは、後片づけをしていた警備員達のもとに行き、成功の陰で働いていた人々に感謝し、一緒に写真を撮った。
警備会社のマネージャー、セガードさん「素晴らしい経験でした。こんなことが起きるとは思っていませんでした」