2月10日(木)

 午前中に患者さんが1人亡くなる。結構いきなりだった。
 午後からは救急当番。何やかやとたくさん来る。連休の直前となると、駆け込みで病院にやってくる人が後を立たない。だから外来受付時間までに来ないと検査の予約も取れないんだってば。今日はカンファレンスの当番にも当たっていたし、他の担当患者の検査やら貧血やらも手伝って大忙し。
 しかし天気が悪い時に限って、1ヶ月前から調子が悪い、という人が来たりする。何もこんな天気のときにわざわざ受診せんでも、と思うのだが。一番すごかったのは、台風で警報が出てる日の夕方に、「1年前から熱がよく出るので精査して欲しい」と言って来た若い男の人。あの人元気やろか。

 19時前に慌てて病院を出る。今日から実家の両親が海外旅行に出かけるため、実家の犬を預かることになっているのだ。一旦家に戻り、バスで京都駅へ向かうが、実家の鍵を家に忘れて途中で取りに戻ったりして、昼間の忙しさの動揺がありあり。
 実家に着くなり、眠っていたたあを起こしてチョッキを着せて(どうやら冬の散歩の時には毎回着せているらしい)高槻駅まで歩かせる。22時過ぎるとバスが少なくなるので慌ててとんぼ返り。京都駅でバスを待っている間、たあが震え続けていたので、風邪でも引かないかと焦る。年寄りだからなあ。
 家に辿り着くともうへとへと。すぐに寝る。

2月11日(金)

 5時前に電話で起こされる。病棟から患者さんが死にそうだというお知らせ。すぐに病院へ行く用意をするが、鏡を見ると、右眼が腫れ、黒眼が数mm陥没して黒眼と白眼の境界が溶け溶けに見える。もともと猫の毛やらハウスダストやらですぐに眼が腫れる体質なのだが、黒眼が陥没したように見えるほど結膜浮腫になったのは初めて。一昨日から右眼のコンタクトの調子が悪く、ずっとぼやけて見えていたので、角膜にも障害があるんじゃないかとかなりびびる。しかしそんなこと気にしてる場合じゃない。とにかく病院へ行く。
 病院に着いた時には患者さんはすでに亡くなっていた。担当患者さんの中で死にそうな人達が1日にして亡くなってしまったことになる。死亡診断書を書いたり、お見送りをしたり。

 眼の方は少しましになったものの、まだ腫れがひどい。眼科に行こうと思ったが、今日は祝日。休日診療所で眼科をやっているところを教えてもらおうと救急室に行くと、ラッキーなことに昨日眼科の手術をした人を診るために9時に眼科の先生が病院に来るという。ということでついでに診てもらうことに。病院に勤めているとたまにはいいことがあるのね。役得役得。
 診てもらうと、たぶんアレルギーだろうということらしい。やっぱり犬を連れて来たせいかもしれない。こないだ犬を預かったときも腫れたし。そういえば、こないだも病院から呼ばれて行くはめになったな。たあが来ると何か起こるのだろうか。逆まつげがあり、刺激になるかもしれないということで抜いてもらい、角膜も診てもらった。薬ももらったし、これでちょっと安心。
 家に帰ってみると、たあは熟睡していた。散歩に連れて行き、その後は引越し準備の続き。なかなか本が詰め終わらない。それにしてもこの家、本さえなけりゃすごく物の少ない家だな。

 午後からは、睡魔に負けとろとろと昼寝。18時前にたあを起こしてご飯を食べさせる。18時半から、病院の先生の結婚式の二次会があるのだ。ご飯を食べてちょっと目が覚めたのか遊びたがるたあを残し、二次会会場へ。今朝亡くなった患者さんの主治医が今日結婚式のこの先生。さすがに今朝はこの先生は呼ばれなかったが、結婚式当日に担当患者が亡くなるとは因果なことである。
 二次会が終わって帰ってきてTVをつけると、ナウシカをやっていたので性懲りもなく見てしまう。膝の上に乗ってきて私の手を枕代わりに要求するたあに邪魔されながら引越し準備の続き。

2月12日(土)

 午前中に病院へ。まだ結膜の充血が目立つらしく、会う人ごとに大丈夫かと言われる。病院の帰りにいろいろ買い物したり、ダンボールもらって来たり。
 この頃同僚が私にアイメイクを教えてくれている。4月までに、私への土産として、化粧技術を身につけさせてくれるらしい。つうことでアイラインだの買ったり。頑張るぞ。この同僚は、うちの病院に夫をみつけるために赴任してきたと言うだけあって、化粧には気合入ってて頼もしい。

 午後からはまた引越し準備。夕ご飯に食料の整理の一貫として雑炊を作るが、雑炊というよりいもご飯になってしまう。薩摩芋、じゃが芋、人参、まい茸、冷凍庫に残っていた薄切り牛肉、冷凍グリーンピース、いつ買ったのかわからないキャベツ、それに残りご飯をかつおだしで煮る。得体の知れないどろどろしたものが大鍋一杯にできた。まずくはないが、おいしくもない。ところが薩摩芋の匂いに惹かれたたあが大興奮。攻撃に耐えながらの食事となった。

 夜、来週の発表の下書きをしようとするが、たあが膝の上から離れない。膝の上に乗ったたあは必ず人の腕の上に顔を載せるので、手が一本つかえない。ということで、右手だけででキーボードを打つ。慣れれば結構速くなるものだ。世の中には常に片手だけで打つことにしている人もいるんじゃないか。もう一方の手で、もう一つキーボード打ったりして。

 お父さんのためのワイドショー講座を見てから、久しぶりに田中邸へ。田中邸は引越しする人が荷物を置いていったりして、狭くなっていた。田中君と寝ている中桐君と亀井君と河村君がいた。仲沢君と中島君も来て、妙に人数が多い。しかも年寄りばっか。
 ここに来て、私の学年の近くの世代のものどもがいなくなることが多い。東に行く人が多く、京都に残る人が続々と少なくなる。しくしく。

2月13日(日)

 8時半くらいにたあに起こされる。夜は好き勝手なところで寝ているのに、8時過ぎから私の枕のそばに来て、見張りをするがごとく(もちろん散歩に行くのを待っているのだ)、寝てはごそごそ寝てはごそごそするので、こっちもおちおち眠ってられない。仕方なく起きて散歩に連れていくが、寝不足で気分が悪い。

 午後から、新しい下宿の採寸に行く。なんか間取りがいまいち。これでも見回ったなかでは一番良かったんだけどな。

 夜、たあを実家に戻しに行く。そこで、失敗。『太陽の王と月の妖獣』の上巻を実家に置き忘れてしまった。いったいいつ取り戻せることやら。

2月14日(月)

 とある病棟の看護婦さん一同からチョコレートをもらう。去年も思ったのだが、これって職種での男女比を反映していて悲しいものがある。
 チョコレートをくれた病棟は、内科の研修医とはあまり仲がおよろしくない病棟だったので、もらっておいて言うのもなんだが、誰かと間違ったんじゃないか、とかなり疑った。でも外科の医者には女はいないしな。

 午後は救急当番。呼ばれて「今から漂白剤と除草剤を飲んだ人が来ます」。有機リン系の薬物中毒なんて初めて。慌ててその辺の本を調べるが、すでに救急室で薬剤科からの情報を集めてくれていた。
 患者が救急室に到着。すぐに瞳孔を見るが、別に普通である。大丈夫じゃないかと思いつつも、一応アトロピンの準備をして他の処置をしていると、30分くらいたってから、急に縮瞳しだした。やっぱり恐ろしい。
 PAMとか、教科書でしか聞いたことのない薬を初めて使う。経験のほとんどない私だけじゃなくて、後で呼んだ医者になって30年の先生も使ったことがないと言っていた。私が国家試験を受けた時は、サリン事件のためにこの手の薬はトピックスとなっていたので、比較的よく覚えているのだが、実際に使うことになるとは。
 しかし、これは飲んだ薬物の名前も分かっていたし、患者も1人だが、突然何十人もの患者が訳の分からない症状で来院して、みんな縮瞳してたりしたら、その恐ろしさたるや想像に難くない。あの当時は薬物騒動はそうそうなかったから、情報入手経路も整備されてなかっただろうし。と、改めて地下鉄サリン事件を思い起こしたり。
 病院の帰りに大学により、家に帰ってからは引っ越し準備の続き。

2月15日(火)

 寝たのが午前3時半だったため、寝不足で1日中吐き気がするわ、すぐ目がうつろになって視界がぼやけるわ。やはり分不相応に夜更かしをしてはいけない。昼間は視点が定まらないままIVHを入れたり、カンファレンスに出たり。

 今日は当直。当直時間帯になってすぐに救急室から電話がかかってきた。救急当番の同僚が「今、ダイセクが来てるから、すぐに来て」。ダイセクというのは、大動脈解離という病気の略称で、「ダイセクが来た」というのは、いうならば「ティラノサウルスが来た!」というようなもの。恐ろしいイベントである。その場で突然死してもおかしくない病気だし、場合によっては患者をすぐに他の病院に転送することもある。幸い今日のダイセクはさほど重症ではなく、まだ夕方で医者もたくさんいたため、ばたばたせずに済んだ。
 何せ寝不足なので、「8時に寝る」という計画を立てていたのだが、この騒ぎのため、就寝時刻は9時になった。しかし、誰も当直医が9時から寝てるとは思わないので、ささいな用事でがんがん呼ばれる。おかげで十分寝ては起こされ、ということが続き、かえって寝なかったほうが体が休まったかもしれない。

 合間に親に電話。たあは元気らしいが、実家では親の膝の上に乗ったりはしていないらしい。あまりに膝の上に乗ってくるので、てっきりこの頃実家では犬を膝の上に乗せるのが流行っているのかと思っていたのだが。とすると、たあは慣れない家が不安で、人の膝の上に乗りたがっていたのか。と思うと、不憫である。でも、ペットホテルみたいなとこに預けられるよりはましだったと思うんだけど。

2月16日(水)

 深夜は呼ばれずゆっくり眠る。7時45分に心不全の入院で呼ばれるが、睡眠時間は9時間余り。頭すっきり。
 昼休みに同僚と2人で献血に行く。今日は献血車が病院に来ているのだ。去年は200ml献血しかできなかったが、今年はまるまると太っているので400ml献血もできるぞ、ふふふ、と思いながら問診を受ける。先に検診を受けた同僚は、Hgbが基準値に足りないということで、献血不適とされている。鉄分足りひんのちゃうか、とか言いながら私も採血を受けると、何と私もHgbが12.1ということで基準値に足りない。健康診断でも血だけは濃いのが取り柄だったのに、なぜー?
 勇んで行ったわりには、2人とも献血させてもらえずに戻ってくるとは情けない。鉄分摂らなきゃ。

2月17日(木)

 午前中に婦長さんに電話がかかってきていた。血液内科の先生からで、どうやら白血病の患者が来たらしく、入院する部屋を探しているらしい。ということは、担当医は私だな、と思っていると、案の定昼前に電話がかかり、新患の急性白血病の人の担当となった。全くの新患の白血病を担当するのは初めてなので(白血病というのは入院期間が長いので、治療途中で担当になることが多い)どきどき。
 午後1番で1年ぶりの骨髄穿刺。その後IVH入れて、患者に告知して、すぐに治療開始。急性白血病はのんびりしてはいられないので、ばたばた。
 仕事が終わるとすぐに家に帰り、引っ越し準備。

2月18日(金)

 話の長い患者に捕まる。どうも金曜日は捕まりやすい。でも、めったに聞けない戦争体験を聞くことができた。
 学徒動員されて将校で南方に送られたので、戦後はC級戦犯になって、捕まったら絞首刑だから4、5年逃げ回ったとか、重傷を負った15、6歳の志願兵の部下にとどめを刺すこと5回とか、いろいろ。すごい。
 うちのお祖父さんも戦争に行っているはずだが、新潟弁でしゃべるので言葉がほとんどわからず(アクセントが違うので肯定的か否定的かも判断できない)意志疎通ができないので、戦争体験どころではない。
 当然のことながらしゃべりたがらないお年寄りが多いし、生の体験談を聞くのははじめて。
 ひとつ勉強になったのは、従軍慰安婦に完全に否定的なこと。「あんな悲惨な南方の戦場に女なんて連れていけるわけがない。あんなことをやったのは、みんな大陸に行ってた連中だ。大陸の連中があんなことしたおかげで、日本軍全体が悪いような言われかたをするのは……」って、従軍慰安婦に金払ったりするのはとんでもない、と強行に主張する人達にはそういう人もいるのね。でもそれってちょっと逆恨みのような。

 それから手相を占ってもらったり。私は今の職業にとても向いているらしい。って3月一杯でやめるんですけど……。それと男運がないらしい。うーん、やっぱり。
 と、ここで時間を食った分、あとは怒涛のように仕事を片付け家に帰る。引越し準備の最後の仕上げにおおわらわ。


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